謎シリーズ

2010年12月27日 (月)

整形した鼻はブラックライトに当てると光る!?

違うんですよ。
今日、テレ朝でやってた「中■正広の怪しい本の集まる図書館」でのネタですけどね。
※・・・スパム対策で一部伏字にいたします。失礼。

「美容整形した鼻はブラックライトに当てると光る!?」
都市伝説は本当か?って内容の番組です。

この問題について、番組では、
・20年前は、ブラックライトで光るシリコンもあった。
・手術が未熟。
・L字型シリコンを入れている。

この3つに該当するならば可能性がある・・・。と締めくくっていましたが、実はこの都市伝説というのは、全く違う理由から発生した噂なんです。

 

実はですね、その噂の原因は鼻の化粧なんですよ。
ブラックライトが流行り始めた時代、そして美容整形が手軽に成ってきた時代、つまり90年代において、鼻筋を高く見せるメイクとして、鼻の高い部分のラインに白いパール系のものを塗るのが流行ったんです。粉でぼかす訳でもなく、べったりとかなり雑に塗るのが流行ってたんです。
例えば、trfのDJ KOOとかもやってました。

でも上手くやらないと変に成っちゃうので、やってる人の数自体は少なかったんです。

で、そこにブラックライトですよ。

パールってね、ブラックライトに当てると異常なほどに白く浮き出るんですよ。そしてそのラインがね、まるで鼻筋のシリコンのように勘違いされるんですよ。「整形してるのかな?シリコンが光ってるのかな?」と思ったって、本人に確認出来ないでしょ。それに、ブラックライトのある場所で鏡なんて見ないから本人は気が付かないで、毎日毎日同じメイクでくるだろうし。そんな事が続くと、予想が確信になっちゃうわけですよ。そして実しやかに、いろんな場所で語られているうちに、「私も見たことある!」という実例などが重なって、都市伝説へと発展していったものなのですよ。

 

つまり、この番組は、美容整形外科医に事の真相を聞いただけだった為に、浅い内容と成ってしまったんですね。

当時の現場の声を聞ければよかったのにね。

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2009年8月 6日 (木)

恐怖! 「ドレ魅のうた」

「ドレミの歌」を演奏してみたのですが、何か違う。恐い・・・。
恐怖のドレミ。
 ↓

 

「ドレ魅のうた」
↑着メロにでもどうぞ。

 


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2008年12月16日 (火)

フォトンベルトの話

フォトンベルトとは、銀河系と縦に交わるリング状のベルトで、太陽系がそこを通過すると地球で大災害が起こって人類は破滅する・・・、とか何とか。
その時期が2012年だ・・とかいう人がいるわけです。

銀河系は直径10万光年。
太陽系が銀河系を一周するのに2億5000万年(250,000,000年)掛かる。
そういう規模の話のはずなのに、フォトンベルト突入は2012年12月22日(冬至)に急に始まるらしい。12月21日は大丈夫なんだそうな。

冬至って銀河系と関係無いんですけどね。
単に地球の傾いている方向に由来するだけであって、地球の創成期から現在までの隕石の当たり方によって作られた地球の傾きが由来しています。そしてその隕石の当たり方に、銀河系のあらゆる作用は無関係であり、偶然の産物です。

2012年・・・良い年を設定したものです。
この年の周辺は太陽の黒点が増える時期、太陽の活動が活発に成る周期に合致します。これを理由に地球の気象も微妙に変化します。このような変化は統計学上11年周期でやってくる事が判っています。
これを利用して、「気象が変だ!これはフォトンベルトのせいだ」などと、騒ぐ材料とするのでしょうか。
したたかな設定です。

で、2000年間かけてそのベルトを通過する・・・という主張。
フォトンベルトって銀河に対してスゲー薄いんですね。銀河の直径の10万分の1の厚さしかない計算になる。
そして定規で測ったような超精密に出来てるんですよ。たぶん・・・。冬至丁度から始まるんですから。

・・・科学的に考えれば無理だらけな話です。オカルトです。

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ひらがなの歴史

「謎シリーズ」のカテゴリにしましたけど、謎って程の事じゃないです。
ただ、平仮名ってどのような歴史が有るのかと思って調べてみた次第です。

 

「平仮名」とは、平安時代あたりに自然発生した文字で、漢字を日本語として使うために進化し生まれたようです。漢字を崩して考案され、例えば「安」が「あ」と成った。
曲線を多用した情緒的な形に進化したのは、和歌など心を詠むものとして使われてきた経緯があるからなのでしょう。
それまでは「我愛称(ウォ・アイ・ニー)」などと漢文(中国語)で文字を書かなければいけなかったのですが、平仮名によって「我はあなたを愛してます」と書けるようになった。日本語文法用に送り仮名や助詞、接続詞などの為に作られたもの。

平仮名の「平」は平安の「平」。平安時代に作られたものということで後世になって名付けられたと思われる。(それとも「平安京の文字」って意味で当時から使われていたのかな??)

ちなみに「片仮名(カタカナ)」は、漢文に読み仮名を付ける為に、漢字の「音」に関連する作りを独立させた文字として開発されたもの。漢字の片側を使っているから「片仮名」なのかな??

漢文と片仮名は主に政治や男性社会で使われていた文字、平仮名は主に遊びや女性社会で使われていた文字だったようです。
明治以降の公文書に漢字と片仮名が使われていたのもこの流れなのかもしれません。

 

「いろはにほへと」から「あいうえお」という50音に変わったのは、室町時代(戦国時代)に西洋文化が入ってきてからのこと。
アルファベットの概念、ローマ字の概念で、50音は生まれました。
そしてそのときに「ん」も開発されました。それまでは「む」とかだった。
戦国時代ゆえの混乱により研究者は不明であり、それが後に江戸時代になってまとめられていったようです。

 

日本ってやっぱり西洋から見ると特殊に見えるようです。ユニークなようです。
イギリスの人と文字について話す機会があったのですが驚いていました。日本は漢字、平仮名、片仮名の三系統を自在に操る文字文化。例えば自分の名前だって三種類で書き表せる。「太郎、たろう、タロウ」とか。面白いですよね。
ま、ヨーロッパの感覚でいえば、例えば英アルファベットの綴りをラテン語の綴りで書くようなイメージのはずなのですが・・・。「国語」として三系統が採用されているのは日本くらいなのかもしれないですね。

ま、そうですね。
中国は漢字だけだし、韓国、北朝鮮なんかは殆んどハングル文字しか使われてない様だし。・・・なんで韓国などは漢字を廃れさせているんだろう。もったいない。

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2007年12月30日 (日)

明治維新で「江戸」が「東京」に変わった理由

いつだったか「その時歴史が動いた」でやっていました

番組によると、明治維新期に正式な江戸への遷都令は発令されていないらしいです。
公家や保守的な大名、そして市民がそれを大反対したかららしいです。
正式な遷都令が無いのはそれに配慮したことだとか。

しかし、江戸幕府の築いた江戸の地は首都として相応しく、時の政府は遷都をめざした。

そこで、江戸の地を「東の京」ということにして、京の人に対して「正式な都ではないですよ」っていうイメージを作った。
そして、京の都を「京都」にして、京=都というイメージを作った。
明治天皇が視察に行く(行幸)・・・という名目で2度東京へ行き、2度目は京に帰ることなく、そのまま明治天皇は旧江戸城に住むことになった。

結果として、「事実上の遷都」を成すための過程で「東京」という名前が生まれた、ということです。


その時歴史が動いた
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2003_05.html


 
2008/01/21
Yahooトップ画面にて、以下のページが紹介されました。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1212144737
このブログ記事の元であり、「知恵袋」の質問に対して私が回答したものです。
数十万件の閲覧と、会員さんからの数百件の好評価をいただきました。
Yahooさん、並びに各会員さん、好評価していただいて誠にありがとうございます。

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2007年11月15日 (木)

日光東照宮 リベンジ!

日光東照宮に行ってきました。
・・・またです。
また、行ってきたんです。

まずは、以前の記事を参照ください。
 疑惑の日光東照宮に行ってきました
今回の目的は、何と言っても「眠り猫」と「竹に雀」ですよ。
リベンジです。

先週末の日曜日11月11日、その日はなんと日光の紅葉のラストチャンスでした。
色々とバチッっと行きましたよ。
それではまず、猫と雀をご覧ください。

S_dsc00287 S_dsc00298

S_dsc00319 S_dsc00323

いやぁ、やっぱり難しいですね。
「暗いところへ照明」が焚かれて、「斜め上」への「望遠撮影」。 こんなにも難しいとは思いませんでした。 ボケるボケる・・・。
やっぱりまだまだカメラの使い方が悪いのか、これはもうね、因縁ですよ。 来年またリベンジしたいです。
次は、三脚を用意していこう。

この眠り猫の為ではないのですが、デジカメを買ったんです。
ソニーのDSC-H7というカメラです。
「カメラはキヤノン」とは言うけれど、私はソニーのタフさに引かれてこれに決めました。
カメラ趣味ではないのでね、有る程度撮れればいいんです。

続きを読む "日光東照宮 リベンジ!"

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2007年11月14日 (水)

「午後12時?」 世界的な時計の不備

「午前12時?」「午後12時?」
世の中には凄い矛盾が有る。
矛盾に気が付いたきっかけはこのブログシステムだった。
そしてこの矛盾が、世界的なシステムの矛盾である事に気付いた。

 

このココログの時間設定は、24時間制ではなく12時間制が採用されている。
画面はこんな感じ。

  12_1

12までの時間を設定し、午前と午後は別のボックスにて設定する。

でも何か変じゃないですか?
気が付きますかね。
上記画面、このエラーメッセージからすると、昼の12時30分は「午後12時30分」と指定しなくてはいけないのだろうか。 いや、それとも「午前12時30分」だろうか。
「午後12時」と言うと、イメージ的には夜中の12時のような気がするのですが・・・。どちらにするべきなのか迷ってしまいます。

そこで、「時間」について調べてみました。
午前12時? 午後0時?
日本標準時プロジェクト (NICT 独立行政法人 情報通信研究機構 より)

この表示方法、なんと法的にこれで通ってしまうのだとか。 っていうか、この微妙な条件において表示の定義が無い! 法の定義がない!
日本だけではなく世界的に、午前と午後の表記には曖昧な部分が有るということか。
・・・これは、明らかに法律の不備であり欠陥ではないか。
というか、世界的な規模の時計システムの不備。

私は思いました。
そもそも、時計の一番上が「12」なのが間違いなのではないか。 本当は「0」と表示するのが正しいのではないか・・・。

それにしても・・・

この件に関し時計協会に問い合わせたところ、昭和51年に一小学生からの疑問がだされ、担任から校長→町の教育長→県の教育長と順次その指導を仰いだが、結論が得られずとうとう文部省まで行ってしまった。文部省でも持てあましたらしく業界の代表機関である日本時計協会に文書で問い合わせがあった。時計協会では、この文書を日本時計学会と協力して、諸外国での表示例やアンケート調査を実施し、次のような見解を発表している。

凄いというか、面白いというか、情けないというか・・・、この問題って突っつくと大ごとだったんですね。 小学生の疑問から始まって世界への調査まで行ってしまうなんて・・・。
ホント、時計の頂上が「12」ではなく「0」だったら何も問題無かったのですけれど・・・。

現在のような丸い針時計が生まれたのが、14世紀ごろ。
時計の発達により、海や大地の測量が可能となり、ヨーロッパは大航海時代を謳歌した。
その頃の時計の頂点にはすでに 「XII」 というローマ数字の12が刻まれていた。
今でもレトロ風の時計にはローマ数字の12が使われている。
しかし、時計の頂点に12を採用したのは歴史的にこの時期なのだろうか。
ローマ数字・・・ローマ時代・・・、いやそれ以上前の時代、エジプトなどメソポタミア文明の頃から、12進法は存在し、そして時の概念もあり、「日時計」や「水時計」などの原始的な時計が既に存在した。 その頃からの名残なのかもしれない。
紀元前約2000年頃には有った事が解かっているらしい。
この頃から12が使われていたのかもしれない・・・。
この流れを断ち切り、14世紀に機械時計が発明された時に、「12ではなく0を使おう・・・」と誰かが言ってくれていたら・・・。

時計の歴史
公的な見解は上記リンク先によると以下の様に提示されている。

午前・午後の表示を伴うデジタル時計については、明かに“12”時は不適当であり“0”時を用いるのが妥当である。

 

さて、事ココログの設定画面の問題ですが、・・・という事は「午前・午後」の設定の有るこの画面では、「1~12まで」という設定の仕方は明らかに公的におかしい・・・という事になる。 24時間表記を導入するか、または「0~11まで」という設定にしなくてはいけない。

どうでしょう、みなさん。
みなさんはどう思われますか?

追記:
ココログが改善されました。
ココログが24時間表記を導入



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2007年11月13日 (火)

坂本龍馬は何者だ? その1

坂本龍馬(坂本竜馬)は何者だ?
1836年1月3日(天保6年11月15日)生まれる
     幼少~青年期 楠山塾で学ぶ 小栗流和兵法日根道場へ入門
1853年(嘉永6年)江戸に出る 北辰一刀流千葉道場で剣を学ぶ 黒船来航を見る 佐久間象山の私塾に通う
1854年(安政元年)土佐に戻る 絵師河田小龍に会って啓発される
1856年(安政3年)再び江戸へ
1858年(安政5年)剣術修行を終えて帰国 北辰一刀流免許皆伝(なぎなた?)
1861年(文久元年)武市瑞山らの土佐勤王党結成に参画する
1862年(文久2年)沢村惣之丞とともに脱藩 九州などを放浪 福井藩主松平春嶽と合う 勝海舟に弟子入り
1863年(文久3年)神戸海軍操練所の設立に尽力 神戸海軍塾の塾頭をつとめる 土佐藩脱藩の罪を許される
1864年(元治元年)神戸海軍操練所創設 西郷隆盛を頼って薩摩藩にて保護される 土佐藩再脱藩
1865年(慶応元年)薩摩藩の援助により亀山社中(のちの海援隊)を組織
1866年(慶応2年)薩長同盟 寺田屋騒動 亀山社中が長州藩海軍を支援
1867年(慶応3年)海援隊を創設 後藤象二郎とともに「船中八策」を策定 大政奉還を実現させる
     12月 近江屋にて何者かに暗殺される
 

史実だと思われる事柄を年表形式に羅列してみた。

私は、坂本龍馬のことが大好きだ。 しかし、世にあふれるようなヒーロー性の高い逸話や、「子供の頃はダメだった・・・」みたいな話はどうもマユツバなんです。
ま、そう考えるとですね、むしろ私も坂本龍馬について勝手な想像や解釈をして、新たな龍馬像を確立したいなって思っちゃうわけです。

つづく・・・

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2007年10月 8日 (月)

疑惑の日光東照宮に行ってきました

朝起きて急に「行こう!」と思い立ち、行っちゃいました。

朝5時におきて、洗車して、そして出発。
東北自動車道にのり、宇都宮ジャンクションから日光自動車道?へ。
ゆっくりペースで9時に着きましたよ。

「日光東照宮」
私は何に対して興味を持っているかというと、断然「天海=明智光秀」の説ですよ。
以前にも「明智光秀ミステリー」で色々と書きました。

興味の点は以下のとおり。
 ・「桔梗紋」とされる紋様を自分の目で確認する
 ・「眠り猫」のうしろの「竹に雀」を確認したい
 ・豪華絢爛な陽明門をこの目で見たい!
 ・陽明門の「逆柱」を見たい!
 ・「見ざる、言わざる、聞かざる」を見たい!
 ・北極星との関係を見たい・・・けど夜は閉館してるから無理か・・・

S_p1000025
(写真クリックで拡大します)
ん~、葵の紋を見た瞬間から歴史の重みに身が震えちゃいました。
すごい重圧感。

で、一の鳥居である石鳥居を抜けた左側にいきなり見えるのが五重塔です。
すげー!カッコイイ!
S_p1000004
写真では石鳥居もちょっと見切れてますね。

五重塔は大好きです。
古代の耐震性の概念や、その建てた棟梁や職人の心を想像すると、それだけで感動です。

そこから、ちょっと歩くと、もういきなり「三ざる」が現れました。
有名な割にはすぐに出てきちゃうんだな。
S_p1000006  S_p1000022

「三ざる」って8枚の彫刻のうちの一つだったんですね。
初めて知りました。

さて、そこから後ろを振り返ると、有りましたよ! 「陽明門」!
S_p1000008
本当だったらこの陽明門をまじまじと撮影するのでしょうけど、今回はいいです。 この遠目の一枚で終了。

そして来ました!
本日のメインイベントの一つ。「桔梗紋」です。
陽明門の左右には作りの似た2つの御堂が有ります。
そこなんですよ。
S_p1000009  S_p1000020

写真左が向かって左側の御堂、写真右が向かって右側の御堂です。
その屋根・・というか軒下の部分に「桔梗紋」らしきものが有りました!
見えるかな?分かるかな? 金色の。
かなり上の方だったので望遠が足りませんでした。
無数に桔梗らしき紋様が有りますよね。

そしてもう一つの桔梗です。
謎の武将の袴。
S_p1000018
んん・・・何でしょう・・・。
私には、これは織田信長の「木瓜紋(もっこうもん)」にしか見えません。

信長じゃないにしても、平家の人物を描いたのでしょうか・・・。私はそう思います。
弓を持ってるから那須与一かな?って思ったけど、与一は平家じゃなくて確か藤原氏だし・・・。もうよく分からん。

陽明門の裏側に「逆柱」はあります。
S_p1000016b  S_p1000017

右の写真、手前は普通の柱で、一つ向こうが「逆柱」です。
模様が逆でしょ。
これは、日光東照宮、また江戸幕府はまだまだ未完成であり、永遠に完成形にならない・・・といった意味のものです。
万物は完成した途端に崩壊が始まる・・・という考えからの、一種の魔除け的なものです。
面白いですよ。

最後に、「眠り猫」と「竹に雀」です。
実はですね、撮影に失敗しました。
手ぶれです・・・。
失敗に気付かず、撮影してそのまま安心してました。・・・がっくし。
でもね、肉眼でよく観察してきましたよ。

「眠り猫」は余りにも有名ですよね。
「竹に雀」とは、その眠り猫の裏側にあるという彫刻なんです。
ネット上で調べてもどこにもその写真が無いんです・・・。  あれ?? っていうか私自身も、ブログに載せるつもりだったのに、撮影失敗してるし・・・。 ざわ・・・。
(左が「眠り猫」 右が裏側の「竹に雀」)
S_p1000011  S_p1000015

 

私がなぜ「竹に雀」に興味を持ったのか。
まず、桔梗紋の噂からだったんですよ。
「桔梗紋があるのは明智光秀がこの東照宮に関わったからだ」の噂です。
実際、社寺にはそれを創建した人物の家紋などが残されることが多いのだとか。

そこで思ったんです。
たしか、「日光東照宮」がこんなに豪華になったのは、三代将軍家光が奥州の伊達家に大金を使わせる為だった。
当初の日光東照宮は質素だったという。
そこで、調べてみたんです。
「日光東照宮」の中の伊達家の紋「竹に雀」を。
で、調べた結果、「眠り猫」の裏に「竹に雀」が在るというではないか!
見つけたのがこのサイトです。→雄峯閣 ―書と装飾彫刻のみかた―
興味津々です。
まさか、伊達家の家紋である、あの「竹に雀」の紋様なのだろうか・・・。

答えはですね、違ったんです。
ま、上記の雄峯閣のサイトにも書いてありますが、「猫の裏に竹と雀」ってので何か魔除け的な意味があるんでしょうかね・・・。
結界?
確かに「眠り猫」を潜って先に進むと、東照宮の一番大切な場所である宝塔(徳川家康墓)があるわけですから。
結界・・・、写真がぶれたし・・・、もしかして・・・。

日光東照宮 リベンジ! 猫と雀にリベンジ!

 

日光東照宮の感想です。
まず、「桔梗紋」というのはちょっと無理が有るかなって思いました。
この東照宮の桔梗紋説が信用できなくなると、天海=光秀の説も俄然ゆるくなっちゃうんですよね。ちょっと残念。
そして暗に持説だった「竹と雀」ですが、やっぱり伊達家の紋とは違いました。

S_p1000032でもね、凄く有意義でした。
数々の彫刻、建物の機能美、文化美は素晴らしかったです。

そして、観光客に外国人の方々が多かったのがちょっと嬉しかったです。
三ざるを素通りししてる外国人に教えてあげ・・・ようと思ったら、日本人らしき添乗員さんが呼び止めてました。
頭の中で、「This is a very famous relief かな?? あ、レリーフって彫刻じゃない・・・ でも彫刻って単語わからない・・・いいやレリーフで・・・」とかやってたら、既にもう私の葛藤は用済みに・・・。
うーん、異文化コミュニケーション失敗!

とりあえず充分堪能できました。
こういうのいいなぁ。

そうだ、今度は京都に行きたい。
京都は中学の時に修学旅行で行ったきりだけど、大人になった今、知識と興味が充分な今、京都に行きたい。
たぶん今回の日光東照宮と似た思いが堪能できるでしょう。
京都の場合はやっぱり計画を立てていかないとな。

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2007年6月13日 (水)

歴史を動かす「桔梗の紋章」

時代の節目に現れる「桔梗の紋章」
現代にとどろく源氏の波紋
日本史を作った系図


家紋、その始まりはなんだったのだろうか。
源平合戦のころ、赤と白で敵味方を区別したのが始まりであろうか。
家紋としては鎌倉時代末期に広まった文化である。

そしてその時期に、1つの一族が桔梗を家紋として乱世に立った。
一族の名は「土岐氏」、列記とした源氏宗家の流れをくむ一族である。
(ちなみに鎌倉幕府を開いた源頼朝は源氏の分家である)

鎌倉時代が終り、室町時代になり土岐氏は美濃の守護大名となった。


室町時代末期、土岐氏は斎藤道三に滅亡させられる。(斎藤道三とは、織田信長に野心と知恵を与えた大名である)
しかし、土岐氏の支流氏族である明智氏だけは各地を流浪し、その一族の1人である明智光秀は織田信長の家臣となる。

明智光秀の家紋こそ水色桔梗紋である。
Kamon_1_1

明智光秀は、足利将軍と信長を引き合わせ、次の時代の長として定めた。
しかしその後、西洋列強の驚異を知ることなり、そして西洋を甘く見ていた感の有る織田信長を見限る。
光秀と天海のつながりを語る説は幾つかあるが、私はそれらについて少しは可能性が有るのではないかと考えている。
光秀=天海ではなかったとしても、その子孫が江戸幕府設立に関与していた可能性は否めない。
 「明智光秀」ミステリー


光秀が構えていた城の名前を坂本城と言う。
その地を坂本と言い、光秀はその地の領主として慕われていた。
「本能寺の変」の後、明智光秀とその一族、家臣達は当然の如くバラバラになってしまう。

仮説として言えるのが、そのうちの1人が土佐の地へ落ち延び、坂本の姓を名乗った可能性である。

土佐の地に、坂本を名乗る一族がいる。
江戸初期には郷士として武士の位にあったが、後に武士を捨て坂本姓を隠し大浜姓を名乗ることとなる。
この時の使っていた家紋は「丸に田」であった。
その後江戸中期になり、商いで成功した大浜一族は再び坂本姓を名乗り、武士の位を金で買うこととなる。
商いの店の名は「才谷屋」であり、その一族こそ、坂本龍馬を生んだ坂本家である。

坂本家の家紋は「違い枡に桔梗」
Kamon_2
「違い枡」は主に畦道や塀を表す場合が多い。
農民として畦の「違い枡」を付けたのか、それとも明智家を守る為の塀としての意味なのか・・・。
しかし、坂本家は当初から商いの家であったという。
何はともあれ、坂本龍馬の家紋には「桔梗」が描かれているのである。

実は、坂本家には「明智氏の一族で明智秀満の末裔である」といういわれが実際に有ると言う。
家祖は琵琶湖を馬で渡った(馬が泳いだ?)明智左馬之助光春と言われる。
明智光秀滅亡後は、土佐に逃れて長岡才谷村に住み、長祖我部家の元で一領具足となる。
長祖我部家は関ヶ原で石田氏に付き負けることとなる。
そして、坂本家は山之内家の治める地、土佐の郷士となる。

また、「坂本、商い、桔梗」というキーワードでも、桔梗の精神を宿した坂本の地の近江商人という解が出てくる。
土佐に逃れる際に近江の商魂を学んだのか、それともその地の商人と共に土佐に逃げたのか・・・。


乱世の時に「桔梗」現る。
言わずと知れた幕末の英雄。
そんな彼もまた、桔梗の一族であったのだ。


 
歴史に源氏が現れ、白い旗印の元に武家社会は興った。
そして、そこから青地の桔梗は生まれ、室町幕府陣営の一角となる。
戦国時代には、桔梗を背負った明智光秀が武士の行く末の羅針盤となった。
幕末、桔梗の一族、坂本龍馬は武家社会に引導を渡し、現代の社会の青写真を鮮明に描き出した。

武家の歴史を桔梗が定めたとも言えるが・・・。
しかし、可能性として言えることも有る。
それは未来に現れるかもしれない「桔梗の紋章」を背負った英雄の存在だ。


乱世を治める「桔梗」は約300年毎に現れている。
最後の桔梗は坂本龍馬であり、今から約150年前のことである。
という事は・・・、150年後、西暦2150年ごろであろうか・・・。

また日本に、いや世界に轟く「桔梗の一族」が現れるのかもしれない。

 
 
 
NOVA1
NOVAのマークは桔梗家紋に似てますが、ちょっと違うようです。
中が丸になってないです。

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