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2015年12月24日 (木)

デスノートの使い道

最近、「バクマン。」が実写映画化された。

ちょっと興味があったので、見てみたい気がしたのですが、オタキング岡田斗司夫が、ニコニコ生放送にてダメ認定してたので、見る気が失せた。岡田斗司夫を心酔している訳ではないけれど、「ダメ」の理由に共感してしまったので・・・。

 

まぁ、それはそれでいいとして、「バクマン。」は、私は大好きでして、これを機に、また全巻読破してしまいました。

良いですよね。面白いですよ。

藤子不二雄の「まんが道」、

そして「バクマン。」

「アオイホノオ」、

こういう、青春を漫画にかけた物語は、凄く面白い。

「まんが道」は、藤子不二雄の実話を基にした物語。

「アオイホノオ」は、島本和彦や庵野秀明の学生時代の実話を基にした物語。

そして「バクマン。」は、基本的にはフィクションだけど、多くの人が想像する通り、私も「作者、大場つぐみや小畑健の経験を基にした物語」だと思う。

 

・・・で、

 

 

そんなこんなで、「バクマン。」を読破したのちに、ちょっと物足りなくなって、同じ作者の「デスノート」をまた読み始めたわけです。

知ってる物語ですが、やっぱりまた最初から読むと、新鮮味をもって楽しむことが出来ます。面白い。

で、読んでて思ったのですが、・・・まぁ、たぶん、多くの人が同じように思ったことがあるはずなのですが、

それは、
「もし、自分がデスノートを手に入れたら、どのように使うのか」
という問題です。

 

デスノートの物語は、凄く面白いのですが、
実際にどうなのだろう。

主人公「夜神月(ライト)」は、犯罪者を殺しまくった。
それによって抑止力が生まれ、「世の中が良くなる」と信じて行動している。

根底にあるのは正義感なのだろうけれど、
これはいわゆる「選民思想」というもので、
例えば、ヒトラーが行った恐怖政治と同じものだ。

ヒトラーは、障害者や、ユダヤ人、共産主義者などを大虐殺したが、
これも実は彼なりの「正しい方向性」や「正義」を基にした行為だったのかもしれない。
もしかしたら、封建的な時代だったなら、ヒトラーも単なる「暴君」としての英雄的な存在だったのかもしれない。もしかしたら、ヒトラーを「絶対的な悪」としているのは、今の時代だけなのかもしれない。

歴史は、勝者が書く。
第二次世界大戦において、ヒトラーに勝ったのは、連合軍であり、「連合」、つまり、現在の「国際連合」の常任理事国の国々(中国は違うけど・・・)だ。ヒトラーに勝った国々が、今もなお、世界を牛耳っている。
まぁたとえ「もしかしてヒトラーってそれほどの悪ではなかったのでは?歴史上多くの覇者が行っていたことだ・・・」とか言う論を誰かが唱えたとしても、現在の国際連合が牛耳る世界では、それは主流とはなりえない。

国際連合が、そういう力を持っているのではない。
国際連合を支えている無数の国々や団体が力を持っていて、そのほとんどが、ヒトラーを肯定したら成り立たない社会を構成している。
故に、今の時代、ヒトラーは「悪」決定なのだ。

 

私がもし、デスノートを手に入れたら、
ライトや、ヒトラーの様に、虐殺を行うのだろうか。

例えば「この犯罪者は死んだほうがましだ・・・。世から消えてほしい。」みたいなことを思うことはある。しかし、それを実行に移すことは、人といて、・・・・いや、社会としてそれは正しい方向性なのだろうか。

「消えてほしい悪人」というのは、だれしも心の中に少なからず居るはずだ。
権力や能力を持ったものが、それを実行に移した場合、
そこには「恐怖政治」「恐怖社会」が生まれる。

 

「恐怖政治」、
そういう政治を行っている国は、世界中にいまでもチラホラある。
アジアにもチラホラ・・・。

私は思う。
「恐怖政治」では、社会の成長、民度の成長はあり得ない。
人々が何十年も、何百年も、かけて、「良い社会」を作り上げることに、人としての社会の価値があると思う。

デスノートや、独裁的な権力を手に入れたとして、それを施行して、選民思想や恐怖政治を行うのは、それは「人類の無能」を示す行為だと思う。

 

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